
1歳2カ月のとき、網膜芽細胞腫(もうまくがさいぼうしゅ)のため右目の眼球を摘出した廣田木綿華(ゆふか)さん(25歳)。子どものころから「義眼での生活は特別なことではない」と考えていましたが、多感な10代はいろいろな努力もしたそうです。
木綿華さんに聞いた全2回のインタビューの後編は、中高生のころから現在までのことについてです。
隠すつもりはないけれど、病気のことを大っぴらにもしたくなかった中学時代

「義眼は眼鏡のようなもの」と考えていたという木綿華さんですが、義眼に関連する困りごとはあったそうです。
「義眼だと、まぶたが下がってくる眼瞼下垂(がんけんかすい)になりやすいんです。また、その日のコンディションによっても、目の表情が違ってくるようです。小学校4年生ごろから下がってきて、だんだんと左右の差が目立つように。気を抜くと右目が閉じ気味になってしまうので、中学生のころは、右のまぶたが開くように一生懸命目を見開いていました。それでもまぶたが下がってしまい、友人から「眠いの?」とよく聞かれていました。
眼瞼下垂のことを話すと、病気のことまで話すことになりそうで、毎回そこまで説明するのは面倒。だから「眠いの?」と聞かれたら、「そうなの、夜ふかししちゃって」と、話を合わせていました。中学生のときは、病気のことを隠す必要はないと思いつつも、大っぴらにはしたくないという気持ちもありました」(木綿華さん)
中学時代はクラス替えのたびに、仲よくしたいと感じた友だち数人だけに、病気のことを話していたそうです。
「毎年クラス替えがあったので、毎年3~5人くらいの友だちに説明し、『目つきがおかしくても気にしないでね』って言いました。みんながするっと受け入れてくれたのがうれしかったです。心配はされたくなかったので、『病気は治っているよ』と必ず強調していました」(木綿華さん)
ヘアスタイルやメイクで、義眼を目立たなくする工夫に力を入れた高校時代

高校に進学すると、病気に対する考え方が変わったそうです。
「高校生になったらかなり開き直れて、病気のことを隠したいという気持ちはいっさいなくなりました。
見えている左側のほうが視野が広いので、黒板を見るには、教室の一番右の列の前のほうの席が楽なんです。担任の先生にお願いして、ずっとその席に固定してもらっていました。席替えのときも、私だけは前後に少し移動するだけです。
そのことに疑問を持ったクラスメートに、『なぜあなただけ優遇されているの?』と聞かれたときは、『病気で右目を取ったから、右の列じゃないと黒板が見づらくて困るから』と、淡々と説明しました」(木綿華さん)
ヘアスタイルやメイクの自由度が高い高校だったので、「義眼を目立たなくする工夫に力を注いだ」と木綿華さんは言います。
「右流しの前髪にして義眼が自然に隠れるようにしたり、眼瞼下垂による目の左右差を無くすようなアイシャドウの塗り方を考えたり。強いピンクのアイシャドウを使ったときは、目が腫れているように見えてしまい大失敗。友だちに『けがをしたの!?』って心配されちゃいました。
写真を撮るときに、『一番盛れる角度』の研究もおこたりませんでした。義眼の黒目の位置から計算すると、顔の左側をより多く見せたほうが黒目と白目の見え方が自然だとわかり、集合写真を撮るときは、中央から左側に立って、顔を左に振るように意識していました」(木綿華さん)